◆「母」がいちばん危ない
母親との関係で悩んでいる娘はとても多い。
大抵そんな娘は、反抗もせずに良い子を続けてきた。だから、いつま親のせいにしているんだ…と自分を責めることも多いのだ。
出来ないから苦しんでいる。
1番自分が自分をさばいている。もがいている。
そんな苦しんでいる人に対して『いつまで親のせいにしてるの』と言うのはなんともデリカシーのない話だ。
所詮わかってもらえないのかなあ、と言う諦念は、とても寂しい。
母と娘の確執など、努力で乗り越えられるものならどんなによかったか。それでも母を赦せないでいる自分をどれほど責め続けてきたか。
誰もが抱えている事なんだから、と言う言葉で片付けれがちなこの問題を考える時、まず突き崩すべきは世にはびこる〈母性という神話〉なのだと思っていた。けれで近頃は、そうではない気がしている。最も理解の妨げになるのは、〈善なる者の傲慢さ〉、つまり多数の側にいることで自らの正義を疑わない人たちの、想像力の欠如ではなかろうか、と。
人は言葉にならないものを理解することが出来ない。私にとって小説を書くとは、まだ名前のないものに名前をつける作業だと思っている。どんなに理解に苦しむ物事でも、呑み込みがたい記憶や悩みでも、名前をつけてラベリングさえ出来たなら、いつか棚に整理することもできるはずだから。
母の望む自分(=世間の望む娘)にはどうしてもなれなかった女たち(私を含めて)が、本の少しでも楽になれたらー。
そんな想いを込めて、わたしはあの小説を書いたし、今回は斎藤氏とも真摯に言葉を交わしたつもりでいる。
村山さんは母親との関係で苦しみでもそれを吐露出来るようになったのは40歳を過ぎてからだと言う。しかも今でも母親の顔色を伺い母親を恐れていると書いてらっしゃいます。
大人になってたら、母親に『怒られる』ということから逃れられると思って、結婚をして家を出た時にはもう天井が抜けて明るなったよううな気がしていましたが、実は無意識のうちに次の支配者を求めてしまったのか、あるいは、そうじゃなかった人を支配者に作り替えてしまったのか。そんなことを初めて意識したのが、その時でした。
支配的な母親から脱げるように結婚をしたが、結局夫が同様の支配者だったという。こんな経験をされる方は本当に多いのだと思う。
作家という特殊な目線を持っている為自分を時に俯瞰し、また自分の心の闇の奥深くまでダイブする。そんな感性があるから作家でいられるのでしょうが、人が感じない、または観ないでいられるものを感じて観てしまうのはやはり辛いだろうなーと本を読んで感じます。
わたしは『赦すところから何かが始まる』というのは神話じゃないかと思うんです。
『赦せない』ということと、まず向き合わないと、自分の中のわだかまりみたいなものはどうしても消えないから。赦せない自分をまず認めて、もしかしたら一生赦せないかもしれなんだけれども『それでも、私は私をやっていくしかないものね』と言う所から、私自身は今ようやく始まっている所だと思うんです。
ここを癒さなければ前に進めないと言うのは幻想。しかし、自分の中に溜まった澱のようなものを抱えたままでは苦しくて仕方がない。だから出てくる感情を感じきる事や自分の中に根強くある母親への想いなどは自分が認めてゆくしかないのでしょう。
母親と娘との関係が複雑なのは、同性であるがゆえの互いのライバル心が根底に在るからだろう。娘が成長期になると母親は全力で娘の「可能性」をつぶしにかかる。ここで娘が反抗するなりして自己主張出来れば関係性は変わってゆくかもしれない。しかし、子どもの頃から支配されてきた娘は反抗出来ずに母親の創った小さな箱に入るしかない。選択権がないのだ。
あとから振り返って思う。本人に自覚はなかっただろうが、母にとって一人娘の私は、一家の主演女優たる自分の座を脅かすライバルと映っていたのではないか。娘の成長も性の目覚めも、常に自分が先回りをして衝動的なセリフを投げかけ、有利な立場に立つ。そうすることで娘をコントロール下に置こうとしたのではないかと。
母親がやっかいなのは、一見優しさとか愛とか気遣いとかそんな隠れ蓑を使い娘を周りの人を支配する事だ。そして何よりも厄介なのは母親本人がその行為に酔い善人を演じている事。
娘は母親の在る意味薄っぺらい演技とその演技の裏にある支配を感じるから傷つく。
支配する母親と優しい娘の図式が出来上がる。娘が幸せになる為には一旦そのドラマから抜ける事なのでしょう。